道化の華

2012/05/28

Déjà-vu

敗戦からまもなく、突如として「戦争は軍が勝手に引き起こしたことだ」といった言論がぶくぶくと泡のようにふくれあがり、沸騰して蒸気となって日本中に拡散していきます。

毎日新聞記者だった森正蔵さんが書いた「旋風二十年」という本がベストセラーになりました。
なぜ戦争が起きたのかという軍部の裏面史を初めてあばいたこの本は、そういう空気を後押しするのに十分な爆発力を持っていました。

「やっぱり俺たちは悪くなかったんだ」
「私たちはだまされていたんだ」
「心ある国民はずっと戦争には反対だったのに、みんな軍が悪い」

そんなふうにして、戦争の責任はすべて軍に負わせられていきます。



いっぽうで敗戦の直後に首相に就任した東久邇宮稔彦王は、「一億総懺悔」をとなえました。
国会でこんな意味のことを語ったのです。

「敗戦の理由はひとつではありません。
前線も銃後も、軍隊も官僚も一般国民も、すべての国民がみなで静かに反省しなければならないのです。
私たちはいまこそみんなで懺悔し、神のまえで心を洗い清め、過去を将来への教訓として、心を新たにしましょう」

これにはみんなが怒りあきれました。
「どうして国民みんなで懺悔しなければならないんですか」
「戦争を決断したのは政府じゃないですか。なぜ僕らの連帯責任に?」
そう、たしかに東久邇宮首相はたいへんに軽率だったといえるでしょう。
何しろこの発言は九月五日。
敗戦の日からまだ三週間しか経っていなかったのですから。
なぜ戦争に負けたのか。それがまだまったく検証されていないのに、「皆で総懺悔しましょう」なんて。
いきなり「国民全員の責任です」だなんて、あまりにも軽い発言だったと言われてもしかたなかったと思います。

政治家たちが自分たちの責任から逃れるために言っている方便だ、と批判されるのは当然です。

でも本当にそうやって「おまえらの責任だ」と非難するだけで良かったのでしょうか?

責任を問うこと。
責任を負うこと。

「みんなが悪いんです。みんなで責任を取りましょう」という言葉。
「私が悪いんじゃありません。悪いのは軍部や政治家です」という言葉。

振り返れば、どちらも無責任だったのではないでしょうか。

本当は、だれにでも責任はある。
でもその責任は多様。

すべての人が同じ責任を持っているわけじゃないけど、でもだからといってすべての責任を少数の人に押しつけるのも間違っている。


とてもシンプルな話ではないでしょうか。

僕らの神話が終わった日
─ そして希望の物語が始まる » Chapter7





佐々木俊尚さんは『「当事者」の時代』の中でも『旋風二十年』という本について触れ、同じようなことを言っている。

今の「政府が、電力会社が悪いんだ」と言い責任をわかりやすい<悪>に押し付け、免罪符を得るような状況ってのは戦後と似たような所があると思う。

“ 一億総懺悔”をとなえるのもおかしなことかもしれないけれど、チェルノブイリを見てきた世代の人間までもが非難しているのははっきりいって不快。
2012/05/26

もううんざりだ

ツイッターをしていた頃、ある福島の方と相互フォローをしていた。

ツイッターを離れた後、彼が自分なんかのことを気に留めていてくれた。
自分がTumblrをやっていたことを覚えていてくれたらしく、Tumblrでフォローしてくれた。

彼のTumblrを開くと、自分へのメッセージがあった。


下のブログの投稿は自分がツイッターを離れた理由を自分の中で整理するための投稿であり、同時に彼にそれを伝えるためのものだった。

道化の華: <ハイコンテキスト>と<ムラ>性

読んでもらうと解ると思うけど、これは別に反原発派だけを批判しているわけではない。

周りが見えなくなっている<一部のおかしな方向>に突っ走っている反原発派、そしてそうした一部の反原発派を批判する方々の中にも<同じようにおかしな方向>に突っ走っている方々がいることに疑問を感じ、
同時に自分に対しても「そういうお前はどうなんだ?」と自分に対して反省を促し、これからも自分の立ち位置を度々確認する必要があるぞ、というような内容だった(と思う)。



Bloggerで自分をフォローしてくれている人がいた。
元々はカッコいいバイクを造っていて、それで自分からフォローしていた。
しかしながら、その人は自分の中で「一部のおかしな反原発派」に見えてしまったので、フォローを止めていた。
さっき何の気なしに読んでみた。


この投稿はきっと自分のブログへの返答に当たるものなんだろうな。

大神戸共榮圈: フクシマ論と原発村

この投稿で開沼博さんの『「フクシマ」論』をあからさまに馬鹿にしている。

この人は『「フクシマ」論』を読んですらいないのに馬鹿にしているんだろうな。
『「フクシマ」論』が提起している問題を理解していないのだから。


きっと原発立地地域は<完全な悪>であり、きっと原発立地地域の過去を遡り、歴史的な背景を知り、どうすれば原発立地地域が良い脱原発が出来るのだろうか?と考える人間は「原発ムラ」側の人間であり<悪>であると決め付けているのだろう。

自分が勝手に決めた<完全な悪>に対して批判とすら呼べないようなただの誹謗中傷だけしているのは楽だ。
自分が<完全な善>になることができるから。



自分のブログに書いたことは「こういうこと」がおかしいのでは?と言ったつもりだったのだけれど。

正直、自分より一回りは離れているオトナがこういう考え方をしているのはゾッとする・・・。



これを読んで大神戸共榮圈さんをブロックした。
だから氏がこの投稿を読むことは無いだろう。

要は陰口だ。
これは自分が批判しなきゃいけない類の卑怯な行為なのはわかっている。

こういう言い争いのようなものを散々ツイッター上で見てきて、もういい加減うんざりしているんだ。
卑怯でも、くだらないことを繰り返すより幾分かはましじゃないか。
2012/05/02

<ハイコンテキスト>と<ムラ>性

えぇ~っと・・・ツイッターを離れた理由・・・。
自分を含む原発を取り巻く状況にうんざりしてきたからかな・・・。



コンテキストは文脈や背景事情であり、コミュニケーションの背景にある言語や共通認識、価値観、論理といったもののことを指している。

ハイコンテキストというのは、他者とコミュニケーションをする際に、きわめて高度で濃密な文脈や背景事情をお互いに共有しているという意味だ。


…しかし日本では、言葉だけでは伝わらないが、その言葉をどういう空間がくるんでいるのかというコンテキストまでを含めて理解していればきちんと伝わる。

それがハイコンテキスト、コンテキスト依存ということだ。

このようなハイコンテキスト文化が形成されてきた背景には日本社会特有の「ムラ」性がある


…あまりにもハイコンテキストに慣れてしまい、その空気感を心地よいものであると感じるわれわれ日本人は、どんな共同体にもハイコンテキストを求めてしまうのである




佐々木俊尚さんの『「当事者」の時代』。


まだ半分ほどしか読んでないんだけれど、途中で出てきた<ハイコンテキスト>と<ムラ>性という言葉を頭の中で何度も反芻している。

もうグッチャグチャになるほど噛んでは飲んで戻して・・・。



ネット上で原発に対して同じ立場を取っている人たちは悲しいかな、同じソースを見ている人が多い。
その立場の急先鋒である人のブログだったり呟きだったり。もちろんそういうのを気にせずに<自分>の考えだけでやっている人もいるけど。

<ハイコンテキスト>と呼ぶには浅いかもしれない。
福島での原発事故から1年ちょっとと時間的にも浅いかもしれない。

でもどの立場にせよ、同じ情報・空気を共有していて閉鎖的で排他的な<ムラ>性を帯びているように感じる。
急先鋒にある人ではなく普通にブログやツイッターなどのソーシャルメディアを使っている人たちに対して。

「反原発は<ネトウヨ>みたいだ。」
「反・反原発は<ネトウヨ>みたいだ。」
というような表現をツイッターで見かけることがあったけど、どちらにも<ネトウヨ>化しているような人たちはいる。



反原発派の方にも福島を悪く言うような人を嫌っている方もいる。
「何Bqが~」「何Svが~」なんていう付け焼刃の科学的知識を振り回す人を嫌っている反原発の方もいる。

でもあまり関心のない方が外側から見ると同じに見えてしまう。

閉鎖的に。
排他的に。

ツイッターやブログなどのソーシャルメディアは物理的には外に開かれている。
それでも関心のない方には<ムラ>的に見える。
デモを行ったり現実にアクションを起こしていても。




それはもちろん自分にも言えること。
自分の場合は開沼博さんの『「フクシマ」論』を読み、「原発立地地域」のことを考えている。

福井ってなんだ ―嶺北と嶺南とか―
福井の原発 ―成り立ち・これまで―

ツイッターは離れたけど、敢えてこれらのまとめだけは残しておいた。


「原発立地地域」という<コンテキスト>を通じて自分も閉鎖的で排他的な<ムラ>性を帯びていると感じてきた。

大飯原発の再稼動を巡るツイッター上での意見を見ていてそれらの意見に苛立っている自分に嫌悪感を抱いてきた。



自らを「絶対的な正義」だと思い込んでしまうのは危うい。

自分の嫌悪している人たちが実は自分の鏡ではないのか、外から見ると自分達も同じように見えているのではないのか。

常に出来るだけ自分を客観視し、自己批判していく。おかしかったら修正していく。


言葉にすると簡単に見えるけど、これが難しい。