敗戦からまもなく、突如として「戦争は軍が勝手に引き起こしたことだ」といった言論がぶくぶくと泡のようにふくれあがり、沸騰して蒸気となって日本中に拡散していきます。
毎日新聞記者だった森正蔵さんが書いた「旋風二十年」という本がベストセラーになりました。
なぜ戦争が起きたのかという軍部の裏面史を初めてあばいたこの本は、そういう空気を後押しするのに十分な爆発力を持っていました。
「やっぱり俺たちは悪くなかったんだ」
「私たちはだまされていたんだ」
「心ある国民はずっと戦争には反対だったのに、みんな軍が悪い」
そんなふうにして、戦争の責任はすべて軍に負わせられていきます。
いっぽうで敗戦の直後に首相に就任した東久邇宮稔彦王は、「一億総懺悔」をとなえました。
国会でこんな意味のことを語ったのです。
「敗戦の理由はひとつではありません。
前線も銃後も、軍隊も官僚も一般国民も、すべての国民がみなで静かに反省しなければならないのです。
私たちはいまこそみんなで懺悔し、神のまえで心を洗い清め、過去を将来への教訓として、心を新たにしましょう」
これにはみんなが怒りあきれました。
「どうして国民みんなで懺悔しなければならないんですか」
「戦争を決断したのは政府じゃないですか。なぜ僕らの連帯責任に?」
そう、たしかに東久邇宮首相はたいへんに軽率だったといえるでしょう。
何しろこの発言は九月五日。
敗戦の日からまだ三週間しか経っていなかったのですから。
なぜ戦争に負けたのか。それがまだまったく検証されていないのに、「皆で総懺悔しましょう」なんて。
いきなり「国民全員の責任です」だなんて、あまりにも軽い発言だったと言われてもしかたなかったと思います。
政治家たちが自分たちの責任から逃れるために言っている方便だ、と批判されるのは当然です。
でも本当にそうやって「おまえらの責任だ」と非難するだけで良かったのでしょうか?
責任を問うこと。
責任を負うこと。
「みんなが悪いんです。みんなで責任を取りましょう」という言葉。
「私が悪いんじゃありません。悪いのは軍部や政治家です」という言葉。
振り返れば、どちらも無責任だったのではないでしょうか。
本当は、だれにでも責任はある。
でもその責任は多様。
すべての人が同じ責任を持っているわけじゃないけど、でもだからといってすべての責任を少数の人に押しつけるのも間違っている。
とてもシンプルな話ではないでしょうか。
僕らの神話が終わった日
─ そして希望の物語が始まる » Chapter7
佐々木俊尚さんは『「当事者」の時代』の中でも『旋風二十年』という本について触れ、同じようなことを言っている。
今の「政府が、電力会社が悪いんだ」と言い責任をわかりやすい<悪>に押し付け、免罪符を得るような状況ってのは戦後と似たような所があると思う。
“ 一億総懺悔”をとなえるのもおかしなことかもしれないけれど、チェルノブイリを見てきた世代の人間までもが非難しているのははっきりいって不快。