道化の華

2012/05/02

<ハイコンテキスト>と<ムラ>性

えぇ~っと・・・ツイッターを離れた理由・・・。
自分を含む原発を取り巻く状況にうんざりしてきたからかな・・・。



コンテキストは文脈や背景事情であり、コミュニケーションの背景にある言語や共通認識、価値観、論理といったもののことを指している。

ハイコンテキストというのは、他者とコミュニケーションをする際に、きわめて高度で濃密な文脈や背景事情をお互いに共有しているという意味だ。


…しかし日本では、言葉だけでは伝わらないが、その言葉をどういう空間がくるんでいるのかというコンテキストまでを含めて理解していればきちんと伝わる。

それがハイコンテキスト、コンテキスト依存ということだ。

このようなハイコンテキスト文化が形成されてきた背景には日本社会特有の「ムラ」性がある


…あまりにもハイコンテキストに慣れてしまい、その空気感を心地よいものであると感じるわれわれ日本人は、どんな共同体にもハイコンテキストを求めてしまうのである




佐々木俊尚さんの『「当事者」の時代』。


まだ半分ほどしか読んでないんだけれど、途中で出てきた<ハイコンテキスト>と<ムラ>性という言葉を頭の中で何度も反芻している。

もうグッチャグチャになるほど噛んでは飲んで戻して・・・。



ネット上で原発に対して同じ立場を取っている人たちは悲しいかな、同じソースを見ている人が多い。
その立場の急先鋒である人のブログだったり呟きだったり。もちろんそういうのを気にせずに<自分>の考えだけでやっている人もいるけど。

<ハイコンテキスト>と呼ぶには浅いかもしれない。
福島での原発事故から1年ちょっとと時間的にも浅いかもしれない。

でもどの立場にせよ、同じ情報・空気を共有していて閉鎖的で排他的な<ムラ>性を帯びているように感じる。
急先鋒にある人ではなく普通にブログやツイッターなどのソーシャルメディアを使っている人たちに対して。

「反原発は<ネトウヨ>みたいだ。」
「反・反原発は<ネトウヨ>みたいだ。」
というような表現をツイッターで見かけることがあったけど、どちらにも<ネトウヨ>化しているような人たちはいる。



反原発派の方にも福島を悪く言うような人を嫌っている方もいる。
「何Bqが~」「何Svが~」なんていう付け焼刃の科学的知識を振り回す人を嫌っている反原発の方もいる。

でもあまり関心のない方が外側から見ると同じに見えてしまう。

閉鎖的に。
排他的に。

ツイッターやブログなどのソーシャルメディアは物理的には外に開かれている。
それでも関心のない方には<ムラ>的に見える。
デモを行ったり現実にアクションを起こしていても。




それはもちろん自分にも言えること。
自分の場合は開沼博さんの『「フクシマ」論』を読み、「原発立地地域」のことを考えている。

福井ってなんだ ―嶺北と嶺南とか―
福井の原発 ―成り立ち・これまで―

ツイッターは離れたけど、敢えてこれらのまとめだけは残しておいた。


「原発立地地域」という<コンテキスト>を通じて自分も閉鎖的で排他的な<ムラ>性を帯びていると感じてきた。

大飯原発の再稼動を巡るツイッター上での意見を見ていてそれらの意見に苛立っている自分に嫌悪感を抱いてきた。



自らを「絶対的な正義」だと思い込んでしまうのは危うい。

自分の嫌悪している人たちが実は自分の鏡ではないのか、外から見ると自分達も同じように見えているのではないのか。

常に出来るだけ自分を客観視し、自己批判していく。おかしかったら修正していく。


言葉にすると簡単に見えるけど、これが難しい。